もはや、立ち止まることは出来ないと己を戒めるかのように土方は忙しなく動いている。
「……いえ、M字額 私は近藤先生をお守りしなければなりませんから。斎藤君辺りどうですか」
「お前の代わりなら、確かに斎藤だろうな。……後、鈴木も連れて行こうと思う。彼奴は確か、記憶が無えだろう。話し方が江戸の出のような気がするからよ、何かのきっかけにならねえかと思ってな」
土方の口から挙がったその名に沖田は僅かに目を見開いた。
──確かに私の弟分として入隊したが、彼の正体は女性だ。旅となればそれがバレてしまう可能性だってある。だが、失った記憶を取り戻すきっかけになるのであれば……。
「もう、彼には言ったのですか」
「いや、まだだ。今夜にでも言うつもりだよ」
土方は愚痴に付き合わせた礼のつもりで、それを考えていた。案外律儀な男なのである。
「邪魔したな。また本願寺で会おうぜ」
何と言えば良いのか考えているうちに、土方は去ってしまった。
──女性だと分かれば土方さんは怒って離隊させるだろうな。江戸に置いてきてしまうかも知れない。でも、それがきっかけで記憶が戻るとすれば、彼女の為になるのかな。
「……どうすれば良いんですかね、山南さん」
沖田はそう呟くと、文机に顔を伏せた。気付けば沖田はそのまま寝入っていた。連日の忙しなさに巻き込まれ、疲弊していたのだろう。
やがて障子から射し込む陽の色は橙へと変化していた。引越しの準備で賑わいを見せていた前川邸はすっかり静まり返り、庭に植えてある木が風に吹かれる度に音が響いている。
それに混じって廊下の板がギシギシと踏み鳴らされた。かたり、と音がして沖田は目を覚ます。
そして反射的に左に置いた刀に手を掛けた。
誰かが部屋の障子を開ける音がする。沖田はその方向へ目を向けた。だが、外の暗さも相俟ってその人物の顔はすぐには分からなかった。
「沖田君、貴殿は何故此処に……」
声を聞くなり、沖田は僅かに目を細める。そこに立っていたのは今はあまり会いたいとは思わなかった人物だった。
「伊東さん、貴方こそ。どうしましたか」
「西本願寺に移る前に、山南君へ渡したい物がありましてね」
伊東はそう言うと、袂から一枚の紙を取り出す。
そしてそれをそっと文机の上に置いた。
「これは……?」
「大した物では有りませんよ。山南君へ捧ぐ です。どうぞ、気になるのならご覧になって下さい」
伊東は物腰柔らかにそう言うと、立ったまま壁に軽く寄り掛かる。
沖田は見るか迷ったが、好奇心に負けてそれへ目を移した。
──山南氏の割腹を弔て
春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまるるかな
吹風に しほまむよりは 山桜 ちりてあとなき 花そいさましの 守りともなれ 黒髪の みたれたる世に 死ぬる身なれは
あめ風に よしさらすとも いとふへき 常に涙の 袖にしほれは
「……どうでしょう。ほど詠ませて頂きました」
そう呟く伊東の声は何処か寂しさを孕んでいる。山南の立場を利用しようとしたり、挑発するような真似をしたりしたものの、人間として好ましく思っていたのだ。
言葉の節々に多少の打算は含ませているが、山南が"良く出来た男"と伊東を評したように基本的に人は良い。
句の善し悪しは沖田にはあまり理解出来なかったが、どれも品があり素直な句だと思った。
「……伊東さんの目には、山南さんは桜に見えたのですね」
沖田の問い掛けに伊東は頷く。昔から武士は桜として喩えられてきた。その散り際は潔く、そして美しい。まさに山南の最期を示す木だと沖田は思った。
「有難う、ございます。きっと山南さんも喜びますよ」
それは心からの言葉である。伊東の腹積もりが何なのかは分からないが、少なくともこの句だけは